サーティエイト 38
他にはない“居心地の良さ”が38にはある…♪緊張感なく自然体でいられるくつろぎの演出がたっぷり♪
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- 住所
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神奈川県横浜市中区元町1-20-2F
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神奈川県横浜市中区元町1-20-2F
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神奈川県横浜市中区石川町2-76-2
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【作成中】
夏の家族旅行は妻籠・馬篭宿経由、下呂・高山2泊3日の旅。
名古屋から妻籠はわりと近いと知った時、何とかこの機会に行けないだろうかと悪あがきがはじまった。
調べるうちに下呂発【馬篭・妻籠のタクシー観光】を発見!これなら
うまくいくと思ったのも束の間、個人ツアーの落とし穴にまたもやハマる。
当初のプランはこうだったのだけど
1日目 新横浜→高山 (高山泊)
2日目 白川郷観光 (下呂泊)
3日目 下呂~馬篭・妻籠観光後 中津川→名古屋→新横浜
色々と問題がありまして逆順で周る事になりました。
興味がある方は長くなりますが以下をお読みください。
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[企画型個人パッケージツアーについて思う事]
●○R社に至っては択べる宿泊地最大○泊延泊可能とうたっている割に乗車券は往復同じ乗車駅となりますとあり途中下車・乗車不可という。
2日目は下呂泊だから東京方面へは高山より手前だし下呂からは乗車できますよね?と聞くと出来ないと言うではないか。わざわざ1時間かけて高山へ戻り同じ道を帰れと言うのか?!全くありえない話だった。
●J社(今回利用)に至ってはそこはあっさりクリア。
これならプラン通りスムーズに行けると思ったのですが…。
【名古屋で途中下車可】という乗車券、下呂(横浜)から乗車し名古屋で乗降り出来るが途中乗車は出来ないという。
つまり下呂からタクシーで移動し中津川から名古屋へ出てもこの《下呂⇔横浜市内》という企画乗車券では乗れないというわけだ。
【企】と書かれたこのような乗車券はあくまで出発地からの乗車が条件となり安い訳ですが自由な組み立てを売りにしている個人ツアーのわりに自由が利かない点は何とかならないものかと思う。
2010/09/04 11:09:49
福岡城は江戸時代を通じて黒田家福岡藩の居城であった。慶長5年(1600年)関ケ原の合戦の軍功により、豊前中津16万石の城主であった黒田長政は筑前52万3千石の大大名になり、かつて小早川隆景の居城であった名島城に入城した。手狭な名島城を廃し、福崎丘陵に慶長6年(1601年)から築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工した。
黒田父子の祖先の出身地が備前福岡であったことから、城の名も福岡城と名付けられた。ちなみに、那珂川を境に東が商人の町・博多。西が武家の町・福岡に分かれ、それぞれ発展してきたが、明治22年(1889年)に合併して、市名は福岡、駅名は博多と両者の名前を残すこととなった。しかし、博多の名の方が歴史も古く、今でも博多商人は、「福岡にはないよー。博多だけだよー。」と叫んで明太子を商っている。東京者から見れば「福岡市博多区だろう」となるが、那の津博多は2000年を越える歴史があるが福岡は高々400年の歴史しかない。
何やら、神奈川県横浜市神奈川区神奈川‥にも似ていようか。神奈川は東海道にある江戸初期からの宿場町なのに対し、横浜は幕末のペリー来航以来の歴史しかない。しかし、今では神奈川(県)よりも横浜(市)の方が知られている。どうやら、商人の町(博多)と武家の町(福岡)の歴史的な違いも含まれているようだ。
(表紙写真は福岡城潮見櫓)
2010/09/04 10:09:11
一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は大船-久里浜駅間23.9kmを称します。
帝國海軍は横濱に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横濱に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。
然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代横須賀鎮守府長官 中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)より輸送手段改善が提議される。
更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。
国立公文書館に於ける該保存文書に、
鐵道建設ニ関スル請議書
相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也
陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道
内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿
の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が緊急性が窺いさせられる。
内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)から該鉄道建設調査を命ぜられたのが逓信省鐵道作業局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)である。
井上長官は調査結果を報告書に纏め内閣に回答した。
横須賀鐵道線路布設之義ニ附復命
右線路ノ撰定及費額調査為致候処横濱ヨリ東海道ヲ戸塚驛ニ至リ此里拾壱里延長合テ弐英里 左折シ鎌倉ニ入リ雪ノ下ヨリ長浦ヲ経横須賀ニ達ス此里程拾壱英里 延長合テ弐拾英里也 又他ノ線路無トキニ非ラスト雖モ難易比較シカ難ク結局該線ヲ以テ最良ノ経路トス 此間著シキ工事ハ隧道ニシテ其延長凡ソ拾弐参町 其他海岸埋築及橋梁ヲ架設スル等一切ノ費額壱英里ニ附凡四萬圓 合計八拾八萬ノ見込ニ有之 乍去横濱戸塚間ハ将来幹線ト見做 夫ヨリ横須賀ニ至るルノ間即チ全ク支線タル分多ク隧道ノ工事等有ルヲ以テ里程八本支等分ト雖モ其支線ノ負フヘキ費額ハ五拾萬圓計ニ可達歟 此ノ概算ニ基キ布設ノ可否御決議ニ相成候ハ直ニ実測取掛リ線路設置等ノ手順可相立右復命候也
政府の回答書では、
曩ニ陸海軍両大臣ヨリ其筋ヘ建議ノ趣旨ニ基キ同鐵道ヲ布設センカ為実測スル所ノ結果ハ其一端ヲ東海道鐵道戸塚藤澤間両驛間ニ起シ左折鎌倉ニ出テ長浦港ヲ経テ横須賀ニ達スルノ一線ヲ得リ 此間知性峻嶮ニシテ海濱ニ接シ工事極テ易カラス従テ山ヲ鑿チ海ヲ填ムルノ労賃少カラスト雖モ線路ハ稍直行ニ近ク然レト述カ如ク労賃ノ点ニ至リテ猶深ク講窮セサルへカラサルモノ有 他ノ数線ヲ試測スルニ更ニ迂回ニシテ工事一層困難ナルカ上労賃益加リ之ニ比スルニ本線ノ費額多ラスシテ径捷且水雷局所在ノ長浦港ヲ経ルニノ便利有ルニ依リ到底本線ヲ以テ最良ト見込撰定致候 尚横須賀ヲ貫テ便利ヲ計ラント欲セハ同所全体ノ市街ニ大改革ヲ与ヘサルヲ得スシテ其費用ノ多キ僅ニ家屋移転等ノ類ニ非サレハ曾テ確定スル所ノ四拾五萬圓乃至五拾萬圓ノ支持スル能ハサル所に附 目下此儀ハ計画不致候間 本線路ハ暫ク水平営ノ東南端ニ止メ候テモ船渠ノ用品及軍港ノ需要品ヲ運搬スルニ充分ト存候ニ附他ニ異議無ク弥本線ヲ採用スルニ決定セハ同水兵営ヲ経過セサルヲ不得モ幸ニ鑚鑿ノ地形ヲ変更スルニ要セスシテ二線ヲ布設スルニ不過候附 御承認相成リ候 図面相添ヘ此段及御照会候也
明治弐拾年十一月弐拾四日
逓信省鐵道作業局長官 子爵 井 上 勝
陸軍大臣 伯爵 大 山 巌 殿
海軍大臣 伯爵 西郷従道 殿
此れらを加味検討した結果、資金不足を根拠に大蔵省の同意が得られず、取敢えず東海道線建設資金内から45万円を流用して建設工事案が設定される。
他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近での人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置し横須賀方面に分岐させる事に決定し建設工事が開始された。
然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。
殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には掘削工事中に落盤事故も発生し死傷者が生じた。
また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過激な国権回復思潮が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗圓覺寺と言えども路線通過の為には例外的存在では無く寺側は有無を言わさず例外は認められず、泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは成り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配頂点上に八幡踏切が設置された。
また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。
然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)1月に工事がほぼ完工し同年6月18日に正式開通した。
然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ同年3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢になる。
開業当初は大船-横須賀間の4往復45分で平均時速21.6キロ運転だったが、同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増発され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ平均時速27.8キロ6往復35分運転となる(平成22年現在、同区間最速列車運転時間は20分)。
横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出す。
事故原因は鎌倉駅信号担当助役が大船-鎌倉間に列車運行中たる事を失念し且つ列車時刻確認を怠り通票閉塞機の故障と独断し不正操作し通票を取出し上り列車機関士に交付した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三澤付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生したが、三澤事故は必ずしも鎌倉列車正面衝突事故が教訓にならなかった事を証明する。
現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居前付近まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の安全面の観点から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事起工し僅か4ヶ月で竣工した。
横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。
各区間複線化工事竣工は、
大船-鎌倉間 大正5年(1916年)9月13日
鎌倉-逗子間 大正6年(1917年)3月
逗子-沼間間 大正3年(1914年)8月12日
沼間-田浦間 大正9年(1920年)10月19日
田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日
また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。
また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、明治期に構築の隧道では口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が施行したが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。
関東大震災発生時、横須賀線内で鉄道関連施設の破壊沈下等々、列車では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や沼間隧道内走行中の第514旅客列車は隧道内で脱線転覆等の被害を生じ列車に乗車中の皇族 華頂宮博忠王殿下をはじめ乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。
特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒200数名と列車から下車直後で崖下を通行中の一般旅客100数名合計300名余の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が蝟集する惨状を呈した。
横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述に震災前後の横須賀駅前の状況が描かれている。
大船-鎌倉間 9月9日復旧
鎌倉-逗子間 9月10日復旧
逗子-田浦間 9月13日復旧
田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧
関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。
北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の圓覺寺住職 古川慧訓(ふるかわ けいくん)(慶応3年(1866年)4月4日~昭和31年(1956年)8月29日)、及び、建長寺住職 菅原時安(すがわら じあん)(明治5年(1872年)12月8日~昭和36年(1961年)3月6日)、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。
即ち、
請訓書
当地ハ大船驛ト鎌倉驛トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、圓覺両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚圓覺寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス
文面後半から横須賀線開通の際に於ける圓覺寺側の恨み辛みが読み取れる。
北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と圓覺寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償寄贈して駅が開設された。
昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、客車時代のクロスシートに慣れた人々の目線にモハ31型のロングシートは沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サロハ46型、クハ47型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換運用される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。
東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期まで芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽対象となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、モニ3型木造荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる横須賀線専用新形式車輌が誕生した。
昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に巨大たるか現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは横須賀第6ドック以外存在しない事からも明白である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の悲運の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降下させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見可能該当ヶ所にコンクリート塀が設置される。
帝國海軍聯合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日~昭和18年(1943年)4月18日) 海軍大将は、ソロモン諸島方面を前線視察中に米海軍に拠り暗号が解読され予定行動が事前に露見していた事から待伏せに遭い機上に於いて米戦闘機の機銃掃射を受け戦死を遂げる。
山本海軍大将の戦死は正式発表まで伏せられ、御霊は聯合艦隊旗艦 戦艦武蔵 に拠り横須賀軍港に搬送され、横須賀到着を待って同年5月21日15時に政府より正式発表され特旨を以って元帥の称号を賜る。
翌22日に、横須賀駅から東京駅まで山本元帥の御霊を搬送する特別電車が運転される。
横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車4扉サハ78型に改造すべく大井工機部に入場改造中に海軍より将校乗車の為に2等車再連結が要請され4扉化改造工事は即座に中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。
横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴用され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出し乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入整備させた他、些か泥縄的ながら3等車サハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席している状態で進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する旨、屈辱的表記が券面裏に記述されていた。
終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。
昭和25年(1950年)に朝鮮半島に於いて朝鮮動乱勃発の頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線富士電車区や飯田線豊橋機関区に転出する。
また、此の年に、現在も伝統を残す車体塗装が横須賀線色に変更される。
久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型(改番後 サロ75型)が新製される。
昭和32年(1957年)5月14日17時22分頃、東逗子-逗子間池子弾薬庫前踏切(現 池子踏切)に於いて安全確認を怠り踏切内に進入した米陸軍第18憲兵隊所属トラックが折りしも進行中だった久里浜発東京行7両編成電車と衝突し、先頭車クハ76005型は脱線大破し、米軍兵士2名死亡、乗客乗務員米軍兵士15名が重軽傷する大事故が発生した。
大破したクハ76005型は台枠部も損傷し廃車も危ぶまれたが、大井工場に於いて台枠部以上を全金属車体で新製し車号もクハ76351型として再生した。
該事故は、前述の明治42年(1909年)1月13日早朝に扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で発生した列車正面衝突事故以来の大事故であり、関東大震災災害を除いた横須賀線内で発生した数少ない列車重大事故である。
表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る
2010/09/04 10:09:03
事情があって 予定変更、、何処へ。。
折角 横浜に来て 望遠レンズも持ってきてるので
久しぶりに ランドマーク タワーが良いかな?
一人歩きの気楽さ 桜木町駅へ
ランドマーク スカイガーデンHP
http://www.yokohama-landmark.jp/skygarden/
義臣 旅記
2010 盛夏 ランドマーク タワー 上
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10495911/
2009 天空を歩く ベイブリッジ スカイ ウオークー1
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10412590/
2009 天空を歩く ベイブリッジ スカイ ウオーク-2
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10412800/
2010/09/04 07:09:22
朝・築地「すし一番江戸前握り寿司」
昼・神田明神下「みやびのうなぎ弁当」
晩・羽田エアターミナルグリルKIHACHIバイキング
築地場外市場・朝食と散策
お台場散策
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多摩川を渡り
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バス内でうなぎ弁当渡されるが・・お腹空かないし・・持ち帰る
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横浜のキリンビール工場見学&試飲2杯
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多摩川・荒川を渡り
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東京スカイツリー見物。時間内に間近迄寄ってみる
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日の出桟橋に行き
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夕涼みクルーズ・貸切なので晴海に寄らずお台場海浜公園下船30分間
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羽田第2ターミナル。KIHACHIでディナーバイキング40分間
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地元駅で解散
大満足の旅行でした
2010/09/03 09:09:52